自分史は文学?文学ではない?
こんにちは。パーソナルメモリーズ スタッフのキョウコです。
三月も二週目に入り、いよいよ卒業シーズン真っ只中となりましたね。
人生は出会いと別れの繰り返しといいますので、卒業した後には新しい出会いがあるとわかっていても、やはり卒業は寂しく切ないものですよね。
卒業式に好きな人から第二ボタンをもらうという風習がありますが、その風習には様々な説があるそうです。その中の一つに、昭和三十五年に放映された戦争が題材の映画であるという説があります。
その映画では特攻隊に志願した青年が出撃前に自分の軍服の胸の第二ボタンを引きちぎって、好きな女性に渡すという描写があります。しかし、現実世界では、戦時中に若者が天皇から頂いた大切な軍衣のボタンを自ら引きちぎる、などということは考えにくい事だそうです。
映画の原作となる小説にもボタンを渡すくだりはなく、映画なのであえてこのような描写をいれたようです。きっと、戦争体験をされた方ならこのボタンを渡すくだりについての真偽を判断できるのでしょう。
小説や映画は多くの人の心を震わせることを前提としているので文学的・芸術的になっています。
では、自分史は文学的にする必要はあるのでしょうか?
自分史は文学かどうか?
少し前になりますが、代表の須藤が自分史の専門家として会合に出席した時の事です。そこで、自分史は文学かどうかという議論があり、須藤としては文学ではないと断言しました。
なぜなら、代表の須藤は自分史作成には、肩ひじ張らないこと・温かみがあることを重要視しているからです。
多くの人が「文学」は芸術であると思っているでしょうから、自分史を「文学」と言ってしまうとせっかく自分史を書こうとしている人にとって書くハードルも高くなってしまいます。
数年前までは「有名人が世の中に発表する前提で自伝を書く」というイメージでしたが、今では、自伝(自分史)を書くという事は有名人だけに限らず、誰でも作れるというイメージが徐々に定着してきました。
今の世の中の人々は次のような目的で自分史を作成されている方が大半であると思います。
・自分が生きた証を家族に残したい(家族が生きていた証を残してほしい)
・自分史を作成して家族や友人とコミュニケーションを楽しみたい
・自分の歴史を振り返って自分を見つめなしたい(自分で読んで楽しみたい)
パーソナルメモリーズでは、人と人とのつながりを大事にすることが理念の一つとしてあるので、お客様がお話しされた言葉がいくら文法が間違っていようとも、その人の体温などが感じられる自分史の本作りを目指しています。もちろん、読み手がお話しを理解できるようには整えて書いており、「文法をこうして欲しい」というご要望にはその通りに作成しています。
それでも、出来るだけお客様自身の話し言葉などを大事にしたいと思っています。
体温を感じられる自分史に
パーソナルメモリーズでは楽しくおしゃべりをして自分史が完成する「おしゃべり自分史」というサービスが大変ご好評いただいています。「おしゃべり自分史」ですと、お客様のいつも通りのお話しの仕方がわかりますので、そちらを活かして作成するように心がけています。
作成された自分史をご家族が読んだ時に
「あ~、お父さんいつもこれ言ってたよね」
という感想をいただけることを望んでいます。
もしもこれが、文学的な事を重視して自分史が書いてあったとしたら、
「なんだかお父さんぽく無くてピンと来ないなあ」
ということになりかねません。
実際に、パーソナルメモリーズの温かみを重視した自分史は、お客様ご本人とご家族みんなで楽しんでいるとのお声をいただいています。将来ご本人が亡くなってしまった後も、残されたご家族がその自分史に体温を感じられた方が心のよりどころになると感じています。
凝った文章ではなくても、あなたの人生や気持ちが素直に書き連ねてあれば、それだけで家族は喜びますし、人の心を充分に打ちます。
自分史作成は芥川賞を取る事が目的ではないので、あなたも肩ひじはらずにリラックスして自分史を作成してくださいね♪