自分史で語り継ぐ戦争体験

こんにちは。

パーソナルメモリーズ スタッフのキョウコです。

今週も夏日が続きましたね。今週も須藤はお客様先に外出が数件ありました。

須藤は自分史を持った仕事の移動にはリュックを利用していますが、この暑さなので汗びっしょりで帰ってきます。

いよいよ学生の皆さんも夏休みに突入したようで、街も夏色に活気づいていますね。学生時代の夏休みはとても長かったので、毎年この日は夏休みの始まりでワクワクしたのを思い出します。

そして、夏を楽しく平和に過ごすと共に、夏には忘れてはならない日があります。それは8月15日です。

また今年も8月15日に終戦記念日がやってきます。

パーソナルメモリーズではこれまでたくさんの自分史を作成してきて、戦争体験談もたくさんお話いただきました。

いくつかご紹介したいと思います。

※全て貴重な実体験談です。お読みになる前に、壮絶な内容も含まれていることをご了承ください。

お客様の戦争体験談

・製紙工場での勤務中に空襲に遭い、防空壕に避難していたのでは間に合わない為、紙の原料であるパルプに身を潜めていた。山積みのパルプを四角く空けておいて防空壕の代わりに使用していた。

この方は結果的にパルプに避難していたので助かりましたが、防空壕に避難した20数名は防空壕が爆撃され亡くなりました。

・東京の下町で空襲に遭い、着の身着のままで逃げた。歩かなくても飛ばされてしまうほどの爆風だった。この日は春一番が吹いていたので、周りは火事で火の風が吹いていた。小学校に避難すると、外は火の海なので中の人は扉を開けない。「開けろ!」「開けない!」の大混乱。結果的に外に逃げた人は助かり、校舎の中にいた人は亡くなった。外から学校を見ると、ガラス窓が溶けて火が噴き出していた。地下室に逃げた人はみんな窒息して亡くなっていた。

・学童疎開で青森県弘前に避難した。お風呂は良し。お米も良し。鱈なども美味しかった。庭には尾長鳥が尾をピョンピョンと振わせ、二匹で何かをついばんでいた。

この方は東京の我が家は焼けてしまいましたが、不自由無い生活をしていました。希望して東京の家に帰ると、お父さんがバラックを建ててくれ、そこでしばらく生活をしていました。

・とにかく食べ物がなかった。栄養失調で亡くなる人も多かった。トウモロコシの粉、サツマイモの粉、ふすまなどを食べて飢えをしのいだ。

・空襲があった翌朝家に帰るとすべて焼けてしまってどこに家があるか全く分からなかった。前の晩に使った鉄のお鍋だけが残っていて、そこが我が家だと判明した。

・隅田川に避難して、大人から「川を見るな」と言われていたけど、好奇心で見てしまったら、これ以上は太れないというくらいパンパンになってしまった人を見た。男性か女性かも分からない。その光景は今でも鮮明に覚えている。

・終戦を迎えて仕事が再開された。アメリカの人が来るということで、若い娘は薬(青酸カリ)を配られ、「いざという時は、それを飲んで死にましょう」というものだった。

・疎開先から見た東京方面は空が真っ赤になっており、「東京は全滅だ」という情報を聞いた。

・とっさに大事なものを抱えて無我夢中で逃げていた。落ち着いた時にふと見ると、枕を大事に抱えていた。

・「ああいうところには行くものでは無い」と言われるほど東京は酷かった。

・実家の前に焼夷弾が落ちたが、不発弾となり周りは焼けずに済んだ。今でも不発弾が出てくることがある。

・集団疎開に行ったが食べ物が悪く、友達は栄養失調になり家に帰された。

・戦後は黒人のMPが立っていた。生まれて初めて外人を見て怖くて外に出られなかった。そのうち徐々に慣れてきて、彼らは子供たちが寄ってくるとチョコレートやチューインガムをくれて可愛がってくれたのでよく遊びに行った。

・友達のお父さんが海軍にいて、「うちのお父さんは戦争で勝てれば元帥になれる」といっていた。戦艦の船長さんでしたが、負けた時に戦犯となってしまったので自決した。日の丸の旗に包み、証拠品と共に海に流された。

・捕虜になり、刑としてシベリアにて二人一組で木の伐採をしていた。食事は黒パンで、喧嘩にならないようにパンを丸めて天秤で正確に量って分けた。

・衣食住では食べ物が全然無くて大変だった。タンポポや蛙を食べたこともある。病気になって死んでしまう人が多かった。結核になって亡くなる人も多く、子供たちは「うつるから近くによるんじゃない」と言われていた。

・東京の板橋から水上のホテルに集団疎開した。焼け野原を見たとか防空壕に逃げたとかいう経験はしていない。食べ物はお粗末で決められた量しか貰えないので常にお腹が空いていた。みかんの皮を食べたこともあった。夜になると子供が寂しくてみんな泣き出すので、それがとても嫌だった。

・主人の家族はみんなで防空壕の中に入っていたが、主人のお父さんが「ちょっと様子を見てくる」と言い、防空壕から出た途端に焼夷弾に当たって焼け死んでしまった。

・宮城県に父と一緒に買い出しに行った。お米をたくさん貰ってきたが、赤羽の検閲ですべて没収されてしまった。食べ物などは検問で国に全て取り上げられてしまう。今思うとあのお米はどこに行ったのか疑問です。

・夏は井戸水が冷たくて美味しく、冬は温かかった。水は綺麗だったがピロリ菌に感染してしまった。井戸水をたくさん飲んだ人はピロリ菌に感染してしまうらしい。

・家族五人で開拓移民としてテニアン島へ渡るため、昭和三年に鹿児島の港から近江丸に乗船した。太平洋の荒波にもまれて、十三日後にテニアン島に到着した。空襲警報が鳴り、空からは機銃掃射、海からは艦砲射撃が来る。この世のこととは思えない光景だった。

・爆風によって、背中に子供をおぶった母親と十歳くらいの男の子の三人連れが、私の目の前で飛ばされて岩の間に挟まれて亡くなった。爆風で岩にしっかりと挟まっていて人間の力では引っ張りだせなかった。

・片足が切れて無くなっている人が手榴弾を持っていた。「自分では叩けないから叩いてくれ」と言われ、可哀想だと思ったが代わりに叩いてあげて逃げた。

・兄と偶然再会して一緒に行動していた。敵軍から十三ミリ機関銃、自動小銃、手榴弾の攻撃を受け、兄が目の前で自決した。自分も出血多量で死ぬと感じたので持っている手榴弾三発のうち、二発を敵の方に投げた。最後の一発は自決用として針金の信管を抜いて叩いた。通常なら信管を抜くと空気が抜けるような音がするのだがその時は音がしなかったのでもう一度叩いた。それでも音がしない。もう死ぬ気になっているので、そのうち破裂するだろうということで胸に当てたまま横になっていた。その間に足の穴からは血がどんどん出て意識不明になった。
一時間後くらいに騒がしいなと思い目を覚ましたら、アメリカ兵が私の周りを取り囲んで治療をしていてくれた。兄は私の4メートルくらい離れたところで倒れていた。

この方が繰り返し言っていたのは、「我が子孫まで書き残したいのは、どんなことがあろうとも決して戦争をおこしてはならないと・・・。」という言葉でした。

・風呂敷にお米、卵、野菜など出来るだけ持って東京に出発した。「東京は危なく何があるか分からないから梅干しを持って行け」と母から言われ、竹の皮に梅干しを並べて手拭いに結び付け、私の腰に巻いてくれた。お腹が空いた時には梅干しを口に入れた。口をもぐもぐ動かしていると子供たちが集まって来た。子供たちもお腹が空いていたらしい。可哀想だと思い、2,3人に一粒ずつあげると、その子供たちのお母さんがやって来て、「ありがとうございます!」とお礼を言ってきた。たった梅一粒であんなに喜んでいたのは今でも忘れない。

・火の海から逃げ、熱くて仕方がないので、水が噴き出しているところがあれば、頭から水を被った。言問橋の上は死体がゴロゴロと転がっていた。赤ちゃんをおぶっているお母さんが死んで倒れており、その背中では赤ちゃんが泣いていた。周りの人は助ける余裕が無い。橋の上はとにかく熱く、でも早く渡らなければならず、みんな必死であった。死んでいる人を蹴っ飛ばすと言うと失礼だけど、足で動かし死体があった場所を選んで歩いた。死体の下の道だけは熱くなかった。神田から火の海を歩いて来たので、運動靴の底が溶けて無くなってしまっていた。足の裏を大火傷していた。この時はもう死体を見ても何とも思わなくなっていた。熱さのあまり隅田川に飛び込んでしまう人が多かった。隅田川に飛び込んだ人はみんな亡くなった。近くの人が「お姉ちゃんたち! 絶対に川に飛び込んじゃ駄目だぞ! 絶対に橋を渡り切れ! 向こうに行けば公園があるから!」と教えてくれた。言問橋を渡り切るのに一時間くらいかかった。

・実家には爆弾が落ちて四畳半くらいの大穴が開いた。兄は穴を埋めずに。「アメリカ人が来たら見せるんだ」と言っていた。穴を放っておいたら、雨水が溜まりドジョウが湧いて池になってしまった。そのドジョウは食べた。ある日進駐軍が家に来た時に、穴を見つけて「これはどうしたんだ?」と訊いた。兄が「アメリカの爆弾にやられたんだ」と言うと大袈裟に飛び跳ねながら驚いていた。

・家に来た進駐軍にご飯を炊いてご馳走すると、日本のご飯が美味しいらしく頻繁にご飯を食べに来た。その代わりに缶詰、チョコレート、たばこを持ってきてくれた。

・焼跡の土地には縄を張っていた。土地の主は亡くなってしまったのでどこが誰の土地か分からなくなっていた。役場に勤めていた人は大儲けしていた。役場の書類もすべて焼けてしまったので、再度土地の割り振りをして、縄を勝手に張って強行的に自分の土地にしてしまった。銀行の隣に住んでいた人は、自分たちはまだ生きているのに、銀行に自分の土地まで縄を張られてしまい、取られてしまった。もちろん役所の書類も焼けてしまったので証拠が無く、泣き寝入りするしかなかった。このように暴力的な人は戦争の混乱に乗じて儲けていた。一見倒れた人を介抱しているのかと思うがとんでもない。亡くなった人のお腹からお金を取っていた人もいた。

・赤紙というピンクの薄い紙で召集令状が来る。紙の値段は一銭五厘。たった一銭五厘で大の男を兵隊として連れて行ってしまう。

・知り合いの奥さんのところに夫の戦死報告が来て、お骨の箱まで送って来た。奥さんがお葬式をやりお墓を立てた。昭和二十二年頃になって亡くなったはずの夫が帰って来た。奥さんはすでに夫の弟と再婚をしていた。お骨の箱には髪の毛が入っていたが、別の人の髪の毛であったようだ。

・現在、日本の政治の方向性はどうもおっかない。戦前の雰囲気にどうも似ていて危ういと感じている。戦争の被害を受けるのは下町の貧乏人である。皇居は全力で守っているので焼夷弾の一本も落ちない。埼玉県の熊谷は昭和二十年八月十四日の夜に攻撃を受けた。翌日のお昼を過ぎれば終戦となり助かったはずであるのに、丸焼けになってしまった。

 

戦争の体験談を募集しています

ここまで読まれて気分が悪くなりましたでしょうか?

ここまでパーソナルメモリーズの自分史から抜粋した私を含めて、読んだ人、思い出す人、話す人、

あまり良い気持ちにはならないと思います。

でもだからこそ、二度と戦争を起こしてはいけないという想いを持って、後世に語り継ぐ必要があります。

 

これからも戦争体験を語り継ぎたいという方にお話を募集しております。

中には思い出したくないというくらい悲惨な経験をされてきた方もいらっしゃいます。

それでも、同じ過ちを繰り返してはならないという使命を持ってお話していただくことも多々あります。

この暑さの中、先人たちの物語を感じながら、考えてみましょう。

そしてお話いただけるのであれば、戦争の時代の話をお聞かせください。

 

テニアン島の地図

追伸

テニアン島の地図は、パーソナルメモリーズで戦争体験を中心とした自分史を作ったお客様が書かれたものです。

このお客様は今は亡くなってしまいましたが、戦争を自分の子孫や多くの若い人に知ってもらいたいという想いで自分史を作成されました。

お客様は「この自分史は多くの人に読んで欲しいので公開出来ればして欲しい」ということですので、たまに貸し出して読んでもらっています。

 

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